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2007年01月31日

時代に乗り遅れたお店の門前払い


この3月には、長女の高校受験が終わるので、
久し振りに家族で温泉に行こうと計画を立てた。

1泊とはいえ、国内の温泉の方が下手な海外よりも高い。
飛騨高山にしようか、下呂温泉にしようかとネットで調べた。

目ぼしい旅館を3つほどピックアップした。
大体、一人2万円~2万5千円の旅館だ。

ってことは、交通費とお土産代とその他もろもろを合わせると、
なんと15万円くらいになってしまう。ほう。。。ま、久し振りだ。

そんな断腸の思いで3つの旅館に電話をしたんだ。
その内容は、ネット環境についてだった。

私の場合、飛騨牛や天然モノの美味い川魚よりも、
ネット環境であることの方が絶対的に大切なんだ。

ま、そんなせわしない生活がいいとは決して思わないが、
それがないと仕事にならないから、旅館代が払えないんだ。

1軒目に電話をした。受付の女性が出た。
私が訊ねた。女性は電話口で口ごもった。

「お待ち下さい」と言われてから2分が経過した。
私は黙って受話器をおろした。3つの旅館すべてだ。

ま、2分ではなく1分の旅館もあったが、30秒を過ぎれば同じだ。
私の感覚が正しければ、少なくとも普通よりは値が高い旅館だ。

ネット環境について即答できない方がおかしいんだ。
ましてや、相手を1分以上も待たせるなんて私には考えられない。

決して難しい問い掛けをした訳ではない。
部屋に持ち込んだパソコンが使えるのか知りたいだけだ。

門前払いというのは、立派なお店が分不相応なお客を断ることだけではない。
今や、時代に乗り遅れたお店を、お客の方から一蹴することだとつくづく感じた。



2007年01月30日

古き良き八百長


ここ最近、相撲の八百長に関するニュースばかりが目に留まる。
こう言ってはなんだが、八百長のない世界などどこにもないんだ。

絶対に八百長は、ある。この世の中に上下関係がある限り、
八百長がなくなることは、あり得ない。そして、それはいいことなんだ。

八百長を組織化すると、それを談合と呼び、
談合を広く社会に浸透させると、それが秩序となるんだ。

あうんの呼吸とか、ツーカーの仲とか当たり前のように使われたりするが、
よく考えれば、言っている内容は、八百長や談合とまったく変わらないんだ。

だから、いくら法律で厳しく取り締まったり、
マスコミで取り上げてみたところで絶対になくなりはしない。

そして、八百長にも2つの種類があるんだ。
それは積極的な八百長と消極的な八百長だ。

積極的な八百長とは、単に圧力をかけて脅したり、
金品などの報酬を与えて便宜を図ろうとするものだ。

一方、消極的な八百長とは、相手から圧力もかけられていなければ、
金品などで便宜を図るように仕向けられてもいない場合だ。

要は、こちらが勝手に手を抜いてしまう場合を消極的な八百長と言うんだ。
私の身の回りを見ても、きっとこのパターンがほとんどだと思う。

極端な例だが、プロ野球でも、引退試合の選手が最後のバッターボックスに立ったら、
ピッチャーは、きっと甘いコースを投げるはずだ。これも消極的な八百長と言える。

その程度のことは当たり前だし、かえって高い評価を受けるはずだ。
そんなものはプロ野球じゃなくても、日常生活レベルで溢れている。

それは、思いやりとか謙虚という古き良き日本のありがたい言葉に変わってね。
八百長とか談合という言葉自体が、共産党と同じように聞こえが悪いだけなんだ。



2007年01月29日

無策という愚行


私は、3~4ヶ月前から十数回ほどYahoo!メルマガで【砂漠に水】を発行していた。
まったく同じ内容のものをコピー&ペーストしただけだ。

それは、なにか策があると思ったからだ。無料配信スタンドが、
実質的にまぐまぐ!1社のみとなっている現状で、Yahoo!が新しくそれを立ち上げた。

きっとなにか策があってのことだとだれもが思うはずだ。
しかし、数ヶ月経った今でもまったくなにも変わらない。

従来通り無料でメルマガが配信できるだけだ。
だから、私は廃刊した。時間の無駄だからだ。

多分、この先もまったく策はないと思う。
あるならば、とっくにやっているはずだ。

Yahoo!のレベルを疑いたくなる愚行としか思えない。
無料配信スタンドというすでに終わってしまった業態になんの策もなく進出することは、

愚行としか言いようがない。本当は思いっ切りバカだと言いたいが、
最近、ちょっと使い過ぎているので、敢えて愚行と言わせていただく。

それに正直、落胆した。きっとなにかやってくれるのだろうという期待があったからだ。
ポータルサイトは、なんでもかんでも無意味にカテゴリを増やせばいいってものではない。

それどころか、使えないものはそこにあっては絶対にいけないはずだ。
ハッキリ言って目障りだ。ビスタの時代に98を買うバカは絶対にいない。

無料配信スタンドは、業種としてはまだ終わっていないが、業態としては終わった。
だから、確実に先はない。絶対にこのままの状態で3年も続くことはまずあり得ない。

そこに果敢に挑戦したYahoo!に期待した私は大バカだった。
なんの策もないなら初めからやるな!と大声で叫びたい。

仕事の範囲を増やすだけなら、どんな無能な奴にでもできるんだ。しかし、
仕事の範囲を狭めて利幅を増やすことができる奴しか、この先は生き残れないんだ。



2007年01月28日

安いアメと弱いムチ


私でも少子化の問題について考えることがあるんだ。
すると、どうしても「死刑が是か非か?」が頭をよぎるんだ。

政府の少子化対策を見ていると、内側のことしか考えていないように思える。
子どもを作る環境とか将来の不安をなくすという薄っぺらな対策がそれだ。

それを具現化した能がない幼稚な策が、児童手当の増額だ。
あれは内側のことしか考えていない極地だと私は心から思う。

将来の夢とか希望くらいは、月額数千円で叶うというおとぎ話だ。
バカか。こんな奴らの元で生活をしていると思うだけで反吐が出る。

話は変わって忘れた頃に、「死刑が是か非か?」が問われる。
世界レベルでは、死刑制度がある先進国は本当に少ない。

すると政府は、周りを気にしながら死刑の廃止に向かって論議を高める。
バカか。死刑がなくなれば、ただでさえ凶悪な犯罪が増えているこの時代に、

さらに油に火を注ぐようなものだ。終身刑では絶対に抑止力はない。
霊長類は、今の存続を断たれることが最も恐怖と感じるはずなんだ。

アタマを抱える少子化の問題を安いアメで解決しようとして、
世の中の治安を維持しているムチを排除しようとしているんだ。

いつもそう感じる。バカばっかだ。
国家レベルで本末転倒だと思う。

少子化対策の安い報酬は、犯罪を抑制する刑の崩壊にも繋がるような気がしてならない。
発想の根幹がどうしても同じ部分にあると思ってしまうからだ。根っこはすべて同じなんだ。

内側を向いた発想や対策に力を注いだところで、解決できることは、なに一つない。
外側を意識した地道な改善策を内側に投じて初めて、問題は解決すると私は思う。



2007年01月27日

大きく蘇る小さな悪事


分譲マンションやホテルを手掛けるアパグループのホテルに耐震偽装があったそうだ。
だれが悪いのか、オーナーは知っていたのかどうかは分からないが、耐震偽装はあった。

その記事が載っていた日経新聞の誌面をめくると、一面に東横インの広告があった。
東横インが中部国際空港の近くに1001室の巨大なホテルを作ったんだ。

そこでふと思った。東横インも耐震偽装だったのに立ち直りが早いな、ってね。
しかし、よく考えたら、東横インは耐震偽装ではなく違法改造だった。

バリアフリー設備を行政の検査後に違法改造によって撤去したんだ。
どちらの犯した罪が重いのかは、私にはよく分からない。

しかし、ホテル事業の存続により大きな影響を及ぼすのは、耐震偽装だ。
構造計算が誤っている以上、取り壊すか大幅な補強をしなければならない。

東横インの違法改造は、また元に戻せば事業は再開できる。
それにいつまでも世間はその程度のことなど覚えてはいない。

ただ、なにか以前に犯したということだけは記憶の片隅に残っているんだ。
そして、それを偶然、なにかのキッカケで思い出したときには、

実際に犯した罪よりもさらに大きな罪にすり替っている場合の方がきっと多いんだ。
他人の犯した悪事は、自分の欲望と同じように巨大化して目の前に現れるものだ。

たしかに、どんなに大きな罪でも、世間は3ヶ月もすれば確実に忘れる。
そんなことを覚えているほど暇ではないし、新しい事件が起きるからだ。

しかし、いくら歳月が流れたとはいえ、それをなにかのキッカケで思い出したときには、
自らが犯した罪の数倍もの大きさになって人々の記憶の中に蘇るものだと私は思った。



2007年01月26日

半分半分の例外


大阪の八尾市にある市立中学校の校長が解任となった。
イジメによって不登校となった女子生徒をそのまま放置したからだ。

今日の住民放送では税理士の話をしたが、
私はなんでも半分半分だと思っている。

世の中にはマジメな税理士も半分居れば、
そうでない悪い税理士も半分居るはずだ。

どんな業種のカテゴリでも絶対に半分は悪いはずだ。警察も半分だ。
しかし、教師に限っては、過半数が悪いと思わざるを得ない。

私がボランティアとして、古着をある養護学校に持って行ったことがある。
5~6年ほど続けて持って行った。その5~6回すべて同じ対応を受けた。

夏、汗を掻きながら大きなダンボールを職員室まで運んだ。
その間、私とすれ違った教師は何人も居るが手伝おうとする気もなければ、
それどころか目を合わせようとしない。手伝わなければならないからだ。

そして、職員室に持って行くと「そこに置いて」とハゲた教師にアゴで指図を受けた。
私は疲れていて怒る気にもならなかった。情けないと思って関わりたくもなかった。

しかし、私は「こいつらは決して悪いとは思っていない」と思った。
常識が絶対的に欠けているんだ。だから、コトの善悪が分からないんだ。

そう確信した。人間として発展途上ならまだマシだと思うが、
未熟なまま自分たちは聖職者だと信じ込んでいる無能な人種だと思った。

当然、そうでない優秀な先生方も知っている。ただ、極わずかだ。
それにその優秀な先生方は、教師にろくな奴は居ないと自ら言っている。

抜本的になにかが欠落している集団だと思う。職員室に入るとそれを確信する。
もっとひどいのは、それを管理する立場の教育委員会だと私は思う。

どっちにしろ今回の八尾市の中学校での校長の解任が、
無能な教師たちに一石投ずる結果となることを心から望む。

4分の1はきっと優秀だが4分の3は不燃物以下だと、
真夏の実体験に基づいて私はそう確信している。



2007年01月25日

あなたが選ばれたその理由


プロ野球のオリックスを自由契約となった中村ノリが宙に浮いている。
あれだけの実績を上げながら、今でもトップレベルなのに浮いている。

最悪、この一年間、野球浪人をすることになる。
いや、野球浪人をしたところで、またプロに戻れるという保障はどこにもない。

ウソか本当か本気かどうかは分からないが、
K-1からオファーがあったそうだ。

今回の顛末を見て思ったことは、サラリーマンにもまったく同じことが言えるということだ。
笑ってしまうほど、みんな勘違いをしているんだ。

中村ノリは、オリックスから提示された年俸の8千万円を蹴った。
ま、フロントとの意見の食い違いもあったらしいが、とにかく蹴った。

それが今では、いくらでもいいから野球をやりたいと言っている。
そこを辞めてから、退いてから、去ってから、みんな分かるんだ。

もっと言えば、そんな状態にでもならないと絶対にみんな分からないんだ。
その球団にいたから、その会社にいたから、そいつには価値があるんだ。

その人自身には、ほとんど価値はない。その職場にいるから、
その会社の社員たちと一緒にいるから価値があるだけなんだ。

それを分かっている人は本当に少ない。
残念だが、パッケージになって一つだ。

今、あなたが在籍する会社から見れば、別にあなたじゃなくてもだれでもいいんだ。
ただ、新人に一から説明をするのが面倒なので、そのままあなたにしただけなんだ。

この世の中、交渉した結果、よくなることはほとんどない。



2007年01月24日

ポルノとゲージツのその違い


昨年、日本経済新聞の連載で話題になった小説『愛の流刑地』が、
最近、映画となって全国で公開されている。

原作は渡辺淳一だが、内容はほとんど官能小説だ。
ま、なんでもいいんだが、文学と卑猥の境目が分からない。

私は当時、朝の熱い珈琲を飲みながら、
家族の目を盗んでは薄目で読んだものだ。

ま、それなりに楽しませてはもらったが、
その当時も今も思うのは、これ変態小説か?ということだ。

手を縛ってとかいつもと違う体位がどうのこうのとか、
目覚めたばかりで読む活字としては結構、ヘヴィだった。

そこで思うのは、ポルノとゲージツはどこがどう違うかだ。
ハッキリ言って手を縛るだけなら団鬼六の方がズッと上だ。

それにテレビだとNGだが、映画だと芸術として評価されるものが多いんだ。
それが私にはまったく分からない。

私はこれまでに数多くの映画を観てきたが、テレビドラマ以下の作品は腐るほどある。
どうして映画だと芸術とか文化になって、テレビだと低俗とけなされるのかが分からない。

なんども言うが、渡辺淳一のあの作品は変態小説としか私には思えない。
どこがどうゲージツなのか、うぶな私にはサッパリ分からない。

ま、それなりに楽しめるから別にいいんだけどね。
でも、緊縛卍責めの団鬼六もそれなりに評価してやれ。あれはあれで素晴らしいんだ。

思うに、最初に属したカテゴリの違いなんだろうね。
小説というカテゴリに属した渡辺淳一は、どんな卑猥なものを書いても小説なんだ。

最初にピンク映画の脚本を書いた団鬼六は、どんな素晴らしい性描写をしても、
そっち系としかきっと評価をされないんだ。

ミロのヴィーナスやミケランジェロのダビデ像を見て興奮する奴はそうはいないと思うが、
あれらは立派な彫刻というカテゴリに属すから高く評価されるんだ。

最初にいいレッテルを貼ってもらえた人間は、ズッとそのレッテルの下で暮らし続け、
最初に悪いレッテルを貼られた人間は、死ぬまでそのレッテルと共に生きなければばらない。



2007年01月23日

小さな誤差が大きな利益


録画してあったNHKスペシャルのグーグル特集を観た。
純粋に面白かった。

これを観たからといって検索システムが判明する訳でもないが、
発想を具現化する方法とかモノゴトの柔軟な捉え方が少し分かった気がした。

要は、課金システムを作っているだけだと思った。

決して、実際にモノを作っている訳ではない。優れたメディアとして自らを強化したり、
そのためにネット上でありとあらゆる世界中の情報を一局に集約させたいだけなんだ。

だから、作っているものは、モノではなくて課金システムだ。

広告主からいかにお金を回収するか。
広告媒体にいかにお金を分配するか。

上っ面だけで言えば、ただそれだけなんだと思った。
そのために世界中から優秀なスタッフが集まっている。

アイディアと技術力がある会社はモノを作るが、
ノウハウと向上心がある会社は課金システムを作ると思った。

そして、アイディアと技術力がある会社にはなくて、
ノウハウと向上心がある会社にそなわっているのは、テクニックだと思った。

グーグルにはテクニックがある。だから、毎月10万人もの採用依頼があるんだ。
アイディアと技術力でモノを作る町工場には、残念ながらテクニックがない。

だから、人が集まらないんだ。きっと発想が大雑把な会社の方が人は集まる。
機械を動かしても人間を動かさない限り、テクニックは身につかないと思った。

だからと言って、モノ作りが悪い訳ではない。それどころか商売の原点だと確信している。
しかし、あまりにモノにこだわり過ぎるのは問題だ。

ミリ単位の失敗が許されないモノ作りでは考えられないと思うことがある。
それは、人間が犯した誤差もテクニックのうちに入るということだ。



2007年01月22日

初心と原点と血と肉と骨


私は「初心に戻る」という表現が嫌いだ。
それは、絶対にあり得ないからだ。

なんであれ一度味わったら、もう元に戻ることはできないんだ。
だから、戻るとすれば初心ではなく原点だ。

初心は0で原点は1だ。

一度でも歩き出したら、もう0に戻ることはできない。
そう、戻ることができる場所は原点の1だけだ。

だから、0からの再出発などあり得ない。
あるとすれば、きっと1からのスタートだ。

先日、私より8歳ほど若い一人の社長とそんなことを話していたら、
「杉山さんにとっての原点はメルマガですか?」と訊ねられた。

私には「初心も原点もありません」と答えた。
もう二度とこんなことは繰り返したくもないからだ。

過去はすべて血と肉と骨になっているので、
もう戻る場所はない。自分自身が原点なんだ。

だから、過ぎ去った出来事に善いも悪いもない。
それは、すべて自分自身の血と肉と骨になっているからだ。



2007年01月21日

しがらみだけの世界


元タレントのそのまんま東氏が宮崎県の知事に初当選した。
それはそれで大いに結構なことだと思う。

しかし、彼の「しがらみのない政治ができるのは自分だけ」という主張が、腑に落ちない。
きっと政治は、しがらみしかない世界だと私は思う。

世の中に、しがらみのない世界など存在しないし、
しがらみがより強く凝縮された世界が政治の世界だと心から思う。

たった一人が純粋でキレイでも、汚い奴が複数居たら、
それで負ける。

しがらみを上手にまとめるのが、有能な政治家だと思うんだ。
ま、私は政治そのものには大して興味はない。

でもね、民主主義ってのは多数決なんだ。
正しいことが優先される訳ではなくて、多いことが正義になるんだ。

たった一人の清らかな政治家が居たところで、
その存在が県民のためになるとは限らない。

さらに彼が言った「宮崎のセールスマンとなって全国に売り込む」という主張が、
訳もなく学芸会レベルの幼稚なものに思えて仕方がないんだ。

一般の常識では、きっと正しい主張だと思うが、
特別な世界では、足元をすくわれるだけのお遊戯にしか思えない。

一人で完結できる世界はない。
純粋がまかり通る世界もない。



2007年01月20日

大豆の希望に狂った世間


あの納豆がバカみたいに売れている。
しかし、明日からはきっと通常に戻ると思う。

どうやらテレビのある番組が、納豆を食べれば痩せると放送したようだ。
それがヤラセだった。番組制作者の捏造だったらしい。

痩せた被験者の写真のすり替えや研究者からのコメントを勝手に操作したようだ。
ま、大したことではない。不二家ではないが、どこでもやっていることだ。

放送する側の倫理など今さらどうでもいい話だ。
いくら叩かれたところで、視聴率を競い合う限りヤラセは絶対になくならないんだ。

笑ったのは、バカな大勢順応主義だ。たった1時間、
テレビで「納豆は痩せる」と放送されただけで、世間は買占めに入る。

バカか。納豆を食って痩せるんだったら、茨城県の水戸市民にデブはいない。
番組の制作側の問題よりも世間の浅はかな行動が滑稽でならない。

大勢に順応するにもほどがある。しかも、納豆だ。
この番組の影響で納豆がスーパーからなくなったと聴いた時点で、

本当に世の中、バカばっかだと心から思った。
と同時に絶対に私はなにをやっても食っていけると確信した。

こんな奴らがほとんどだから、私は負けたくても負けることができないんだ。
そして、食えなくなったら最後はこんな奴らにツボでも売ればいい。痩せるツボだってね。

世の中に、世間に、無理に逆らう必要はないが、
尻尾を振って従う必要はもっとない。しかも、納豆だ。

納豆は黄金の粒じゃない。単なる大豆だ。
基本的に新しい情報は、ほとんど勘違いかまったくの捏造かどっちかなんだ。



2007年01月19日

匿名の功罪


このサイトにコメントを書き込めるように設定したが、唯一の条件はフルネームだ。
漢字の名前を平仮名に変えた時点で本名ではない。それはペンネーム以下だ。

コメントの内容を吟味しようにも大した内容などほとんどないので、
それは基本的に問わないことにした。

しかし、それでも「ニックネームや匿名ではいけませんか?」
などという中学生以下の問い合わせが毎日届く。ダメだ。

ダメだと言っているものに対してイチイチ再確認をするのは、小学生だけだ。

私はペンネームや匿名を使って、だれにも見られないところでなにかをするという習慣が、
多くの人間をダメにしたり犯罪に導いたりすると確信している。

自分の素性を隠して裏でなにか悪事を働いたとしても、
顔も本名も知られないという間違った安全が根底にあるからだ。

どうでもいい個人情報さえ、過剰なまでに守られている。
素顔をさらけ出してフルネームで勝負すれば犯罪などほとんど起きないんだ。

私のように顔も名前もさらけ出して、ドメインまでフルネームであれば、
どこにも隠れようがない。それに隠れてまでやりたいことなど一切、ない。

私は間違っても自分の意見に責任を持てとは言わない。
それどころか責任など持たなくてもいいとさえ私は思う。

だから、隠れるんじゃねぇ。みっともねぇんだよな、架空の名前は。
そして、お顔を隠しているから、いつまでも汚いままなんだ。出せ。



2007年01月18日

朝の握手 ~あり続ける保障


タレントの風見しんごの愛娘が昨日、トラックに巻き込まれて亡くなった。
実に悲惨で辛い事故だ。まだ10歳で可愛い盛りだというのに本当に悲しい。

トラックは青信号なので右折しようと前に進んだ。
一人の少女も青信号なので横断歩道を渡った。

結果、トラックの運転手の前方不注意でこのような悲惨な事故が起きた。
自分がいくら注意をしても相手が突っ込んでくれば逃げようがないんだ。

だから、一歩家を出れば、なにが起きるかはだれにも分からない。
いくら安全を心がけても防衛を怠れば、なにが我が身に降りかかるかは分からない。

私は2人の娘が朝、学校に行くために玄関を出るとき、握手をするんだ。
それが最後の握手になるかどうかは、だれにも分からない。

娘たちになにかが起きるのではなくて、
私になにかが起きるのかも知れない。

数時間後、無事にまた顔を合わすことができれば、まずはホッと一安心だ。
今、あるものがいつまでもそこにあり続ける保障は、絶対にない。



2007年01月17日

消えない顔の傷


今日の住民放送では、不二家の一連の報道について思うことを書いた。
要は、上場するような大きな会社など、きっとどこも似たり寄ったりだ。

一つ言い忘れたことは、一番の被害者のことだ。
それは消費者でも不二家自体でもFC加盟店でも社員でもない。

それは、ペコちゃんだ。
今まで何十年もの長い間、不二家の顔としてお店の前にズッと立ち続けていた。

今でも立っている。不二家の製品には、
なくてはならないキャラクターだ。

不二家自体や幹部連中へのバッシングは時間と共に確実に薄れる。
社員の失ったはプライドは、新しい社員に入れ替わればなにも問題はない。

でも、ペコちゃんの顔についた傷は、決して消えることはない。
なにをどうしたところで、顔についた傷は絶対に消えることはない。

看板についた傷なら塗り直せば以前よりもかえってキレイになるはずだ。
しかし、周知されたキャラクターの顔についた傷は、決して拭い去ることはできない。

大成功したブランディングの末路を見たような気がした。



2007年01月16日

専門バカの鰻の寝床


私が多くの人といろいろな話をして感じることは、
その話の間口の広さと奥行きの深さだ。

基本的にだれもが話の奥行きを重んじている。
それは、できるだけ内容の濃い話をしようとすることだ。

すると間口がそれに比例して狭くなるんだ。
間口が狭くて奥行きが深ければ、聴いているこっちは息苦しくなるんだ。

それは、鰻の寝床とまったく同じだ。

話の奥行きなど放っておいても自然と深くなる。
肝心なのは間口の広さだ。それは話し手にしか、決して広くすることはできない。

例えば、話の間口が30cmだとしたら、
あと5cmほど広くしてもらいたい。

それは、右に5cm広げる場合もあれば、
左に5cmのときもある。左右に2.5cmずつ均等のときもある。

2cmと3cmのときもある。

とにかく意識的に話の間口を広くした方が、聴いているこっちは心地がいいんだ。

味があって内容の濃いものを提供しようとすればするほど、
その間口が狭くなって奥行きばかりが井戸のように深くなるんだ。

それを世間では、専門バカと呼んでいるんだ。
それを黙って聴いているこっちは辛くなるばかりだ。

相手の心の扉を開くのは、その話の間口の広さだ。
相手の心の中にクサビを打ち込むのは、その奥行きの深さなんだ。

だから、まずは扉を開けないことには始まらないんだ。



2007年01月15日

1600円以下の価値しかない一日


愛知県犬山市にあるリトルワールドに行った。
訪れたのは2回目だったが、確実に3回目はない。

本当につまらないのだが、今日のところはリトルワールドの話はどうでもいい。
そこにやって来た若い夫婦の話だ。

この時期は寒くてお客がまったく来ないためか、リトルワールドのこのサイトから、
割引券をプリントアウトして愛想の欠片もない窓口の女性に見せるだけで半額となる。

ま、それもよくよく考えれば人を小バカにした話だが、この時期は半額になると知りつつ、
私の2つ前に並んだその夫婦は、割引券を忘れて窓口の前で呆然としていた。

すると私の右斜め前に立っていた気の強そうな奥さんが、
旦那に向かって「どうして忘れたの?」と軽く罵った。

旦那は「忘れたものは仕方ないね」とその場をサラッと流した。
すると「呆れたわ」と奥さんは吐き捨てるように言うと、大きくため息をついた。

旦那は足早にサッサと一人で歩き出した。きっと怒ったに違いない。
奥さんはバツが悪そうな顔をしながらも、旦那の後について行った。

そこで私が思ったのは、割引券を無愛想な窓口の女性に見せたところで、
1600円が浮くだけだ。たったの1600円だ。

たしかにスーパーで買い物をするときの1600円は大金だ。
しかし、たった1600円のためにせっかく楽しくなるはずの一日がパーとなった。

きっとこの奥さんの一日の価値は、1600円以下なんだと私は思った。
それに普通なら3200円を払うのが本当なんだ。だから、なにも問題はない。

1600円も安くなるからといって、わざわざこの寒い中をやって来たのだとすれば、
まったくお話にはならない。

きっとこの手の奥さんは「あそこはここより20円も野菜が安い!」とか叫びながら、
1キロ先のスーパーまでガソリンを撒き散らしながら買出しに行くに違いないんだ。

仕事なら無駄なく効率をよく考えながらやった方がいいかも知れない。
しかし、優雅で楽しい人生を過ごすためには、いかに無駄をやり過ごすかだと思う。

もっと言えば、無駄を楽しむとか無駄なことに価値を見出すことが、
本当に優雅でゆったりとした楽しい人生の過ごし方だと私は心から思う。

たった1600円。たったそれだけで、もう戻ることのない大切な一日をパーにする人は、
いくらお金があったとしても優雅で楽しい人生を過ごすことはきっとできないと私は思う。



2007年01月14日

豆腐の角では物足らない哀れな日本人


あれは約2週間ほど前のことだ。私は小さなお店に入った。
そこはテイクアウト専門の惣菜や弁当を売るお店だった。

時計の針は12時を少し回ったところだった。
案の定、レジには弁当を持った多くのお客が並んでいた。

レジは1台しかなかった。
そして、そこに立っているのは、まだ20歳にも満たないような女性だった。

あどけない感じのその女性は、お客からの問い掛けにたどたどしく答えていた。
どうやら中国から研修でやって来た女性のようだった。

一人の若い男性客の口元をジッと見つめると一生懸命に言葉を理解しようとしていた。
いくら研修とはいえ、日本語はほとんど理解できるようだった。

そのときその女性は、レジを打ち間違えたようだった。
「すみません。打ち直します」と顔を紅潮させながら謝った。

するとその若い男性客は「お前、日本語できるんか!」と怒鳴った。
当然、周りの人間たち驚いた。まばたきを忘れるくらいに驚いた。

私は驚くというよりも、その男が吐いた言葉の意味が一瞬、分からなかった。
そして、その若い女性は「すみません。すみません」と謝り続けた。

するとさらに「もうええ、中国へ帰れ!」とその男が叫んだ。
レジの向こうの女性の目から涙がこぼれた。

そして、私の怒りの導火線に火が点いた。
この手の男に言葉は要らない。

私は背後からそいつの襟首を鷲掴みにすると、そのまま壁にそいつの頭を激突させた。
決して血が出ないように。しかし、豆腐の角では柔らか過ぎて物足らないんだ。

床に崩れ落ちたそいつは振り返って抵抗を試みようとした。
私は仕方がないので上から右足で十二指腸を押し潰した。

無言で淡々と罰を与えた。
私は隣の冷蔵庫の中にあった『お~い、お茶』をサッと取り出すと、
そいつの頭の上から一気にかけた。

「お前、日本の男として恥ずかしいだろ」と私は言った。
そいつはまるで命乞いをするかのような目で私を見上げた。

「お前、ここが中国だったら死刑だぞ」と私は言った。
そいつはまるで命乞いをするかのような目から涙を流した。

「帰れ。その前に『お~い、お茶』代を払え」と私は言った。
そいつはそのとおりにした。

私はレジの向こうのあどけない感じの女性と、
店長と思われる年配の女性に深々と謝った。

それは、理由がなんであれお店を荒らしてしまったことと礼節を守らないどころか、
相手の気持ちも理解できないバカな野郎が日本にいたことを恥ずかしく思ったからだ。


※すべてノンフィクションです。 ただし若干、時期や状況は変えてあります。



2007年01月13日

待ち客商売人の薄いアタマ


今日、床屋に行った。実に5ヶ月ぶりだ。
その床屋に行くのはこれが2回目だ。

そして、もう二度と行かない。
その理由は2つ。

1つは、カットをするのにハサミを使わずにカミソリで削ぐからだ。
考えられない。前回にも耐え難い違和感を覚えたが、やはり耐え難い。

髪が悲鳴を上げて泣いている。
42年もの間に十数件の美容院や床屋に行ったが、初めての経験だった。

あと1つは、喋り過ぎる。
あまりにも能がないネタを耳元で喋り過ぎるんだ。

床屋は、無口に限る。

申し訳ないが、床屋に限らず待ち客商売の店主の発想は幼稚過ぎる。

私は以前、製薬会社に勤めていて、そのときに多くの薬局を回ったが、
薬剤師のアタマの中の薄さには驚愕した。

外の世界に出ることができない商売人は、新聞とテレビの情報しかアタマの中にはないんだ。
まぁ、それはそれで大いに結構なことだとは思うが、

それを耳元で喋りかけられるこっちの身にもなってもらいたいもんだ。
私は眠いんだ。

しかも、ザ・ワイドの草野さんが話した内容をあたかも自分の意見のように耳元で喋る。
お客が私だけならまだいいが、他にもお客がいるときは私がこっ恥ずかしくなるんだ。

私はお前の意見を聴くためここに来たんじゃない。
髪さえ切ればそれでいい。だから、黙れ。

そう叫びたくなる。
私に課せられた今の仕事は、新たに寡黙な床屋を探すことだ。



2007年01月12日

コンテンツとセンテンス


いい映画は90分間できっと終わる。
私は2時間を超える映画は疲れるから嫌いだ。

テレビの2時間ドラマが面白いのは、
CMを除くと90分にまとまっているからだ。

小説は直木賞のようなストーリー・テラーよりも、
芥川賞のような純文学の方が好きだ。

大きく異なるのは、コンテンツとセンテンスだ。

コンテンツはその内容(物語)で勝負をするが、
センテンスはその文章自体で興味を引き寄せる。

全体を読ませて、観させて、感動させるドラマよりも、
その一文、一行で決着させる方を私は好む。

例えば、パッと開いた本のそのページを読んだだけでも感動したいし、
感動させたいと強く思う。

村上春樹の文章が大好きなのも、きっとそのせいだと思う。
すべてのページどころか、すべての一文、一行だけでも読み手を引きつけている。

緩やかな流れのような文章で一つの物語を書き綴るのも当然、素晴らしいとは思うが、
どこを切っても秀逸なコピーのその連続がまとまった物語の方が私の性には合う。

毎日の【砂漠に水】もそうなるようにと心がけているし、
なにか新しい発想をするときにも、すべてコピーで考えている。

最後まで読まないと感動できないものは、薄い。
金太郎飴のようにどこを切っても同じ味がする仕組みの方が私の性には合っている。



2007年01月11日

ハゲのダンディズム


これは今までにだれにも言ってはいないが、
私の中の最高のダンディ像は、ハゲだ。

かっこいいハゲではなくて、ハゲだからこそかっこいいのだと思う。

若い頃までというよりも、ついさっきまではそうは思っていなかったが、
最近は異様なまでにハゲに憧れる。

アタマを丸めればいいってもんじゃない。
ハゲだ。

渡辺謙片岡鶴太郎を見るとなにかしら感じるものがある。
なんとなく孤高のダンディズムに近いものを感じる。

積極的にハゲるつもりはないが、
年齢と共にハゲ上がるアタマに期待する。

きっとそのアタマではみすぼらしいかっこうはできないと思う。

ハゲだからこそ似合うファッションよりも、
ハゲにしか似合わないファッションの方がズッと素晴らしい。

いぶし銀のような男は、きっとハゲがお似合いだと心から思っている。
人生に深みを増せば増すほどそれに比例して顔の皺は増えるものだ。

そして、さらに熟成を重ねた年月を歩めば歩むほどアタマはきっとハゲ上がる。
それこそお気に入りのスーツからカジュアルなものまでバシッと似合うはずだ。

ちゃらちゃらしたニューハーフのような髪型よりも、
そそり立つような見事なまでのハゲ上がったアタマに私は純粋に憧れる。



2007年01月10日

慣れる視力


毎日10時間以上もパソコンに向かっていると確実に視力は低下する。
ただでさえ0.1もない視力がさらに悪くなっていく。

私の利き目は左だ。
明らかに右よりも左の視力の方が勝っている。

視力というものは不思議なもので、使えば使うほどよくなっていく。
当然、利き目である左の目ばかりが優先して使われる。

すると年々、左の目と右の目の視力の差が歴然と広がってくる。
しかし、どうしても使えば使うほど消耗するという感覚が拭い去れない。

決まって、タイヤと同じように感じてしまうんだ。
タイヤは使えば使うほど磨耗する。磨かれて消耗することを磨耗と言うんだ。

しかし、視力は使わずに温めておいても温存できるどころか、
使用価値がないと勝手にみなされて日々、劣化していく。

それが中学の頃の私には本当に不思議だった。
正直、今でも不思議でならない。なぜ使うのに減らないのかが分からない。

よく考えたら、基本的に技術の向上という感覚がないらしい。
ウデを磨くという感覚がまったくないんだ。

もっと分かりやすく言えば、やればやっただけそれが上手くなるとか、
それによって自信がつくということをまったく感じないタイプだとやっと気づいた。

やればやっただけなにかを失うと本当に感じてしまう。
磨かれるどころか、自信がつくどころか、溶けてなくなってしまう。

まるでローソクの火が蝋を溶かしていくかの如く、
火を灯し続ければ蝋が削ぎ落ちていく感じが否めない。

だから、文章を文字数をいくら毎日毎日、膨大な量を書いたところで、
上手くなったとかウデが磨かれたという自信などまったく湧いては来ない。

それにそんなものを望んでもいない。
私が感じることは、慣れたということだけだ。

きっと視力も使えば使うほど、周りの景色に慣れるものなんだとふと思った。



2007年01月09日

ジブリの「の」


以前、テレビ番組の中だったと思うが、
宮崎駿監督についての面白い話があった。

映画のタイトルについてだ。
スタジオ・ジブリのすべての作品がそうではないが、
宮崎監督が手掛けた作品のタイトルのほとんどに「の」がついている。

『となりのトトロ』や『紅の豚』や『風の谷のナウシカ』など。
どうやらそれで縁起を担いでいるらしい。

そのときにふと思ったのは、私の場合、住民放送の内容をザッと書いて、
最後に本文と編集後記をザッと眺めてタイトルを決めている。

いくら本文の内容が上手く言い表せたと思ったところで、
タイトルが今一つバシッと決まらないと、すべてがパーになった気がする。

個人的にはそのタイトルを見ただけでは内容が分かりにくい、
かなり曖昧というかシャガールの絵のような抽象的なものが好きだ。

しかし、書籍にしろメルマガにしろビジネス系ではそれはタブーだ。
できるだけパッと見て内容が分かるような、また一気に興味をひくような、
横一線のつまらないアイキャッチを異常なまでに重要視している。

だから、内容も横一線でつまらない。

今、出版をするために過去の住民放送の中から選んだ100滴を構成し直しているが、
それぞれの一滴のタイトルは分かりにくかろうがなんだろうが、そのままバシッと載せる。

極端な話、内容よりもタイトルの方が重く、大切だとさえ思っている。

書籍本体のタイトルはまだ決まっていないが、できれば『砂漠に水』のままが、
曖昧で抽象的で本当に分かりにくいからこそ、いいと思う。

具体的な表現でだれでも分かるような箇条書きのタイトルだったら、
中身を開かなくてもタイトルだけで十分だ。それ以上のことは書いていない。

本当に素晴らしいものがたくさん詰まっている宝箱なら、
それを包む包装紙は訳の分からない曖昧なものになるはずだ。

タイトル一つでも、いろいろなことを考えさせられた。

とにかくなんでもかんでも具体的なものが偏愛される世の中だからこそ、
曖昧で抽象的なものの価値を理解することができる奴が最後に残ると鼻で笑った。



2007年01月08日

割に合わない銀行強盗


プロ野球のオリックスの選手が車でひき逃げをした。
前川という選手だ。近鉄で活躍した時代からまあまあ知ってる。

自転車に乗った女性をはねて、その後、口論となった。
そこを通りがかった警察官に免許証の提示を求められたときに車に乗って逃げた。

この行動パターンがまったく分からない。
どうやら無免許だったらしく、それがバレるのを恐れて逃げたらしい。

逃げ切れる訳がない。例え、そのまま車から降りずにひき逃げをしたところで、
まず捕まる。ジャパンの警察はそこそこの検挙率を誇るんだ。

そこでふと思ったのが銀行強盗だ。
銀行強盗と誘拐事件の犯人は、まず100%捕まる。

だから、やれば絶対に捕まるのにどうして危険を冒してまでそれをやるのか、
私にはそれがまったく分からない。

私は自分の娘たちに悪いことはやらないようにと言っている。
他人をイジメたり、お店の商品を盗んだり、とにかく自分が悪いと思うことは一切、
やらないようにと言っている。

それは割に合わないからだ

要は、道徳上、それをやることがいけないと言ったところで、やる奴はやる。
でも、それをやったら絶対に自分が損をすると思えば、まずやらない。

だから、割に合わないからやらない方が身のためだぞ!と言っている。
これ以上の説得する文句はない。

武田鉄也が、自分の娘がまだ小さい頃にわざと赤信号なのに横断歩道を渡ったらしい。
するとそこを走る車にクラクションを鳴らされたり、怒鳴られたりした。

武田鉄也は、娘に赤信号のときに渡ると怖いからもう止めようね、と言った。
さすが金八!

道路交通法上のルールを教えたところで、そんなものはだれも分からない。
自分の身にプラスなのかマイナスなのかで教えた方が絶対に正解だと信じる。

その後、大きくなれば赤信号で渡っちゃいけないという程度の分別はつくもんだ。
キレイごとを言っても、お腹にはきっと落ちないはずだ。

自分にとって割に合うか合わないかで判断するのが一番手っ取り早いし、
それがきっと長く生き続けられる一つの方法だと思う。

だから、損か得の道があれば、まともな常識人は得を選ぶ。



2007年01月07日

自分の中の社説


朝、一番初めにするお決まりが、日経新聞をテーブルの上一杯に開くことだ。
今日の天気を見て悲惨な事件を見てスポーツ記事を見て経済&政治欄を見て、
社説を読む。

だから、読む箇所は社説しかない。
あとは熱い珈琲を飲みながらボーっと眺めるだけ。

まったく読むに値しないからね。
それに視力の無駄遣いだけは避けたいものだ。

以前、中日新聞を購読してくれと頼まれたので試しに購読した。
1ヶ月でやめた。まったく読む箇所がなくてゴミになるだけだった。

私は毎朝、ネットで社説を読む。
社説はその新聞の中の最も重要な顔だと思っている。

だから、いくら素晴らしい記事を経済欄に書いたところで、
社説が稚拙だとその新聞自体がパーっとなってしまう。と私は思う。

それが最近、非常に弱い。
要は、新聞の顔である社説が横並びのように感じる。

まるでワインのテイスティングのように、
社説記事だけを抜粋してそれをじっくりと読んでも、

どこの新聞社の社説なんだか判別ができなくなっている。
これは私の味覚の衰えか相手の感覚の衰退かどっちかしかない。

たしかに3000円のチリワインと3万円のブルゴーニュの違いは分からん。
でも、新聞の社説の善し悪しくらいはよく分かるつもりでいる。

右でも左でもどっちでもいいから、とにかくもっと個性を出してもらいたいものだ。
取り上げるテーマもほとんど同じ。テーマが同じじゃなくてもニオイは同じ。

本当につまらん。だれも教科書を求めている訳じゃない。
ニュースの内容は事実でなければならないが、

社説は事実にこだわることはない。考え方が肝心で、
もっと言えば、それだけで十分だと心からそう思う。

私は新聞だけに限らず、自分のサイトにも新聞で言うところの社説が必要だと思う。
まぁ、この【砂漠王】をそうしたいとは思っても、タイトルが【砂漠王】じゃねぇ。。

正しいか間違っているかじゃなく、いいか悪いかでもない。
まったく自分勝手な解釈でいいから、頭の中の考え方を出せばいい。

それがあるかないかで大きく方向性が変わると思っている。

私の住民放送を聴いている数人が「面白いけどこんなにキツイことを言うと、
かえって杉山さんのマイナスになる。あれをやり続ける意味が分からない」と言った。

バカかと真剣に思った。それどころか、哀れに感じた。
教科書を読んで喜ぶ奴は絶対にいない。

それが間違って解釈されるような伝え方でも、
誤解されるような表現でも、でっきるだけ理不尽な物言いをした方がいい。

そんなことも分からんバカに聴いてもらう気もない。
ましてや住民放送では言いたいことの10分の3程度しか話していない。

サイトに限らず、自分自身を明確に露出できる社説に当たるものを書くべきだし、
それを表現できる場を設けなければならないと強く感じる。

個性は相手に間違って解釈されようがまったく構わない。
個性自体が自分自身だから、相手に左右されるはずがない。

だから、思いっ切り理不尽たれ!



2007年01月06日

きっと大切な寄付行為


そこにはムーミンとノンノンが縄跳びで遊んでいる絵が描いてあった。
岐阜信用金庫の預金通帳だ。おまけにスナフキンまでもが縄跳びだ。

十六銀行の通帳では、トム&ジェリーが仲良く珈琲を飲んでいる。
ビジネス系の私としてはどちらも耐え難いものがある。

だから、そんなことはどうでもいいんだ。

ふとムーミンの方の通帳を開いてのぞいた。あ、少なッ!
残高がモーレツに少ない。越冬が出来ないかも知れない。

そして、一行一行の引き落とされた明細を確認した。
そうだ、アリコの変額終身保険を解約しよう!と今年に入って初めて結論を導いた。

あと気になったのは毎月末に落ちる夫婦2人分の国民年金だ。夫婦3人分はあり得ない。
きっと私が年金を受け取るときは随分とその年齢を引き上げられるに違いない。

そうでなければ、受給額を減額されるに決まっている。
まぁ、どっちにしたところで今、私が支払っている保険料は、
私の元に満額戻ってくるものではない。絶対にあり得ない。

だったら、なぜ今、すっげぇ裕福でもない私が支払っているのだろうか。ジッと考えた。
今、支払っている3万円弱の保険料は今のお年寄りのためだ。

今、私が支払っている保険料は、今のお年寄りが受給している年金額に当てられる。
決して将来の私のためにプールされるお金ではない。

そこでバカバカしいから国民年金をやめて民間の生保などの金融機関で、
将来のために積み立てをする人たちが多くなる。

ちょっとFPの知識をかじった中途半端な人々が、
自分は堅実な人間だと勘違いをして起こす行動の一つだ。

まぁ、偏差値で言うと35レベル。名城大学にも入れん。

今、保険料を支払うことは寄付行為だと私は思っている。
私はこう見えても寄付をするためにそれなりにお仕事をしているんだ。

当然、家族を食わせることが第一だが、家族が幸せに暮らすためには、
きっとなにかの寄付行為をするべきだと随分前からそう信じていた。

知らなかったでしょ? だって、だれにも言ってないもん。

自分たちだけが食うに困らないだけでは、
自分たちは本当に幸せとは言えないと思う。

少なくとも身の回りの人間が食うに困らない状態にならなければ、
いくら目の前にご馳走が並んでいても、心の底から美味しいとは感じられない。

だから、絶対に寄付行為はなくてはならない行いだと強く信じる。
決してお金なんかじゃないんだけど、それしか与えるものがないから、
少しのお金を受け取ってもらえばいい。

そこで、今のお年寄りのためになる仕組みがこの国民年金だと思った。

ユニセフに寄付をするのも本当に立派な行為だが、
ジャパンのお年寄りのために寄付をすることは当然の行為だと私は思う。



2007年01月05日

空気を読めない50歳の迷惑


昨日、いつもの馴染みの和菓子屋に行った。

私はそこで思う存分に鑑賞しまくって買うべき商品を決めてレジへと向かった。
すると私の前に50歳くらいの女性とその娘と思われる女性が立っていた。

なにやらカウンター越しに女性店員と喋っていた。
どうやら和菓子をゆうパックでどっかに送るらしい。

その50歳くらいの女性は蚊が鳴くような小さな声で、
店員にチマチマと指図をしていた。

な~んかよく分からんが、包み紙だけ欲しいとか、
明日の3時じゃなくて午前中に届けて欲しいとか、

一回言ったことをちょこちょこと変えまくっていた。

気がつけば私はそこに5分も立たされていた。
私の後ろには3組のお客さんが並んでいた。

前ではその50歳の女性が「やっぱり自分で郵便局に持っていくわ」と言ったそのとき、
私の怒りの導火線に火が点いた。

「え~えかげんにせんかッ、このボケ!」私は怒鳴った。
周りは水を打ったかのように静かになった。

「お前、後ろを見んか。何人並んどると思っとるんや!」と私。
「え、でも…」とその女性は怯えて言った。

「なにが“でも”や。周りの迷惑考えずに50年以上も人間やるな!」
自分でも言ってはいけないことを言ってしまったそんな気がした。

そのとき2人の女性店員が割って入った。

ふと気がつくと周りの人たちはみんな涙目になっていた。
なぜ君たちが泣くんだ?と私は感慨にふけった。

まぁ、たしかにお店側にも大いに問題があるとはいうものの、
これほどまでに周りの空気を読めない自分勝手な人間がいることに私は驚愕した。

今までは、ただ年を重ねるだけでも生き続けることはいいことだと思っていたが、
ただ年を重ねるだけで、周りに迷惑をかけるのも如何なものかと思ってしまった。


※数分後、言い過ぎたことは事実なので、私はとっても紳士的に詫びた。



2007年01月04日

ボッティチェリとバカ息子


先日、エジプトのピラミッドの神秘を探るテレビ番組があった。

素晴らしい! でも、観なかったけど。

そんな番組があったなんて知らなかっただけ。
知っていれば絶対に観るのに。たまにはテレビ欄もチェックしよう。

私は大自然には興味はなくて、人の手によって造られたものに非常に興味がある。
大自然はスゴイに決まっているからだ。神さまが造ったものだと感じるねぇ。

無神論者だけど。

その時代、なにを思ってそれを造ったのかと考えるともう嬉しくてワクワクするね。
ピラミッドでも、マチュピチュでも、アンコールワットでも、ナスカの地上絵でも、
イースター島のモアイ像でも、ボロブドール寺院でも、法隆寺でも。

とにかく人の手によって造られたものがたまらなく好きだ。
だから、きっとキレイだろうけどオーロラには興味はない。

私はイタリアのルネッサンス時代が大好きだ。
さっきまでネットでボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』をボーっと眺めていた。

そこで思ったのは、イタリアという国は世界に誇るすっごい先人たちの宝庫だった。
そして、今のイタリア人はその先人たちが残した莫大な相続財産で食っている。

世界中からダ・ヴィンチやミケランジェロを観に来るからね。それはいいんだけど、
それらの修復をやっている多くは、ほとんどイタリア人じゃない。

世界中の国から集まった精鋭がイタリアの先人たちの名作を修復している。
本当に情けないお話だと思う。

先代からの莫大な相続財産を食い潰しているだけのそこらの二代目を思い出した。
ただ食って消費するだけのバカ息子とまったく同じに思えてしまう。

相続財産を維持しながら上手く活用して食っていくことは素晴らしいことだと思う。
しかし、維持すらできない奴らにそれを受け継ぐ資格はないと心から強く憤る。

どこでどうなったらそんなにDNAが薄まってしまうのだろうか。

ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』をボーっと眺めながら、
私はある一人のバカ息子を思い浮かべた。